ガイドさんの受け売り:百済最後の都<扶余>をたずねて

韓国の旅は、5号車。いつも一緒だったガイドのパクさんはお仕着せの案内にとどまらない楽しく愉快、そして彼女の人生観も率直で共感できる、名ガイドであったと感謝しています。そんな彼女の案内で回った、古の百済の都 扶余。今は緑濃い田園風景が穏やかな農村でした。西暦660年に百済新羅と唐の連合軍に跡形もなく壊滅させられたのですが、その時残った石塔が、定林寺跡に残る五層石塔でした

御影石に黒々と残る炎の跡は、どんなにすさまじく徹底的に焼き払われたかを今に残す貴重な痕跡といえましょう。
なぜこの石塔が倒されなかったというと、唐の将軍が戦に勝った記念の碑文を刻ませたからだということのようでした。今この辺りは発掘調査が続いており、歴史の証明は現在進行形といった感じでした。
百済の古都、次に訪れたのは白馬江の遊覧船。この河の流域は、百済の要人を救おうと救援軍を派遣した斉明天皇の船団が大敗した白村江の戦いがあったところです。見るべきはゆったりと流れる河と百済の王宮の女性たちが新羅の攻勢に追われ、自ら身を投じた崖があり、その様はまるで花が散るようであったという「落花岩」を見逃さないことでした。確かに河の流れに揺れているとそれだけでほっとする時間でしたが、日本でも戦時中追い詰められて崖の上から止む無く身を投じた人々がいたのだなあと、胸迫るものがありました。


次に向かったのは、国立扶余博物館。
ここでは何よりも先に、国宝の(百済金剛大)香炉を見ましょう!ゆっくり部屋順に回っていたら肝心の香炉が人で人でじっくりと見られなくなりますから、という案内で、ひたすら香炉の部屋へ急ぎましたね。
この大香炉は、百済滅亡の炎の中から運び出され、土深く木で作られた箱の中に横たえられ、水に埋もれながら660年から1993年まで長い長い眠りについていたのでした。誰によってここへ埋められたのか、どんなドラマが展開したのか、知りたいですね。香炉の高さは61.8cm、龍の台座に、香を焚くボウルは連弁を配し、ふたの部分は重なり合う山並みに楽人や、釣り人、象に乗る人などを表現し、最上部は躍動的な鳳凰が表現されています。

  発見されたときの様子

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4枚の写真は Fragrance of KOREA c2006 による

とても魅力的な、ジーッと見ていて飽きない香炉でした。やはり仏教文化はわが身に近しく異国とはいえ懐かしいルーツを感じました。
それにしても、韓国の西側は百済、東側は新羅、この戦いは現代に至るも対立が残っており、大統領選挙とか、恋人もどちら側の出身かを聞いてから、yes : no を決めるとか・・・・・
今は昔ならぬ「昔は今」?脈々と受け継がれる流れが続いているのですね。